てくてく、歩む

家のようにあたたかく、家族のような会話が生まれる、そんなお店の開業を目指しながら、現在は不動産会社で営業と人事のお仕事をしています。平凡サラリーウーマンから夢を叶えるまでの、道のり日記✍️

目の前の1つを成功させること

最近、期末という時期になり、「焦り」ばかりが先走るような、そんな生活を送っていました。

 

しかし、今日、松永さんとやりとりをしているときに「目の前の1つがうまくいかないのに、全体がうまくいくわけがない」と言われ、ハッとしました。

 

全体を見据えること、これももちろん大切なのですが、目の前の1つ1つが出来ていないのに、焦ったところで足下すくわれる。

 

小さなステップを自分に設け、「今日はこれが出来た」「明日はこれが出来るように」「今週はこれが出来るように」と、積み上げられるように、また頑張ろう。

信じるために、疑う

ちょっと、ショックなことがありました。

 

でも、有馬さんから言われた言葉を思い出しました。

 

「信じるために、疑う」

 

人を疑うことって、なんか申し訳ないなって思ってたから、この言葉は目から鱗やった。

 

相手を生半可な状態で信じてしまうと、裏切られて双方の関係が悪くなる。

それなら、信じ通すためにも、ちゃんと確認をする。そのために疑う。

 

大切やなぁ。

人の「欲」の1番奥にあるもの

とある学生さんとのやりとりの中で、「かっこいい大人になりたい」という学生さんがいた。今まで、自分の「かっこよくありたい」にすごく真っ直ぐに貪欲に突き進んできた子。

 

部活動で成績を残すことにコミットし、部長にもなり、人がついてきたという。

 

確かに、結果を残すことってかっこいい。

 

でも、「かっこよくありたい」の欲の奥にあるのって

愛されたい

な、気がする。

 

これは、その子に限った話ではなく、色んな人の「〜したい」の奥には、「愛されたい」っていうのがある気がする。

 

大富豪になりたい
オリンピック選手になりたい
パティシエになりたい
etc...

 

「愛されたい」の欲求には、全く関係なさそうなこれらも、結局は手段でしかなくて、

 

大富豪になりたい人は、大金を得ることで自分が人から注目を浴びると思っている

 

オリンピック選手になりたい人は、自分が好きなスポーツで輝くことにより注目を浴びると思っている

 

パティシエになりたい人は、美味しいお菓子を提供することで、愛されると思っている

 

みんな、自分が知っている「愛されるための手段」を使おうと、日々生きているんじゃないかなぁ。

………

便利な世の中になり、人と人との繋がりが薄れてきたこの世の中。昔は、そんなに自分をPRしなくても、生まれながらにして横の繋がり・地域の繋がりが、根付いていた。

 

しかし、より個人単位となった現代社会において、「繋がり」や「愛情」を感じにくくなり、人々は何とかして自分に注目を向けようと躍起になるようになったんじゃないかな。

 

だからこそ、突拍子も無い信じられない事件が起こる。そうすることにより、注目を浴びるために。

心の中のコップが干からびており、人に愛情を注げるだけの精神状態じゃ無いから、すぐに「キレる」。

 

もっと、横の繋がりが豊かになれば。
もっと、他に「愛される方法」を知っていれば。
変な事件なんか、起こらないやろうになぁ。

 

いつやったかなぁ。ある時ふと、悲しくなったことがあった。

 

なんか、世の中愛情不足やなぁ」って。

 

いつ、何で、何に対してこれを思ったのかは、すっかり忘れてんけど、ぼんやり思った記憶がある。

なんか、そんな世の中をちょっとでも変えられたらな、って思うのです。

 

…。変人かもしらん。(笑)

 

 

人は、とやかく言うもんやなぁ

私は、良くも悪くも色んな人の話を聞き入れてしまいます。
そんな中、ふと思ったことが1つ。

 

私も含め、世の中みんな、自分の立場からしか話をしない。普通のことなんやけどね。

 

「あいつはどーや、こーや」という人ほど、その「あいつ」に、どーやこーや言われてる印象。

 

みんな、好き勝手言ってるのよね。

人って、そんなもんかなぁと。

 

過去に、いじめられたことがあり、そのときに「周りになんて言われるか」が、怖くなり、言動することが怖く、人を信じられなくなる時があった。

 

ある意味その感覚は正しかったかな、と。

 

何かと言うと、「周りは必ず何か言う」ということ。

 

でも、言われてるほど「自分」は注目はされていない。

 

あくまで、皆、個々人が「自分の考えの正しさ」をアピールするために、その手段として人を愚痴を言っているだけの話。ベクトルはその「あいつ」に向いてるようで向いてない。

 

どうせ何か言われるのなら、周りから何か言われても突き通したいと思うことを大切にもっておくべきかな、と思った。

 

だって、自分の人生やもん。

“言葉”は氷山の一角にすぎないpart2

松永さんという、社外の素敵な先輩にお会いをし、「よーし、私も松永さんみたいにSNSを使って、自分が日々の生活の中で感じたことをアウトプットするぞ!そして、自分の考えが相手にちゃんと伝わるような表現を磨くぞ!」と思い、ブログを始めた2017年1月。

 

まーーーーーー

 

見事に

 

月日の流れに流れてしまいました。はい、更新が滞っておりました。

 

昔からですが、私、思い立ったらすぐに行動を起こすその早さはあるんですが、その早さしかむしろなくて、継続することがとても苦手。

 

ちょっと話は変わるけど、先月から旦那さんと、それぞれ毎月月初にその月の目標を決めて共有をし、月末にどんな1ヶ月になったかをシェアすることを始めました。(気持ち悪いよね)

 

そして、2月を振り返ってみたら、んまぁ私の未達具合が目立つのなんの。

 

危機感を感じました。このままやと、自分の夢さえも未達に終わる、嫌や、と。

それと同時にワクワクもしました。「え、こんな私が出来るようになったらめっちゃおもろくない?」と。

 

てなわけで、3月の目標のひとつ、「毎日帰りの電車で記事を書く」をちゃんと達成できるように頑張ります╰(*´︶`*)╯♡

 

てことで、今日感じたこと。

【“言葉”は氷山の一角にすぎない】

 

前にも思ったことがあるこのことについて、改めて痛感することがありました。

 

採用をしていると、様々な言葉に触れます。

「働く上で重要なのは人です」
「仲間と協力して達成したのが嬉しかったです」
「怪我をして大きな挫折を味わいました」

私自身、就職活動をしているとき、周りと話していてよく聞くような言葉でした。

 

そしていざ、採用担当者として学生さんと色々お話しするとき、「へ〜この子は人が大切なのか〜」「仲間が好きな子なのね」「挫折を味わった経験があるのか!」と、まぁ

 

言葉通りに受け止めていました。

 

しかしなんか、その子のことはどんどん知っていく…つまりその子にまつわる知識は増えていくはずやのに、どうも話が深まらへんよーな気がして、ある時先輩に相談してみました。

 

そこで言われた一言が、

抽象的な言葉をその子がどうとらえてるのかを深めて初めて、その子が知れる

ということ。

 

また、別の先輩にも相談すると、

信じるために疑わなあかん

とのこと…。

 

目から鱗でした。

例えば

「働く上で重要なのは人です」
→何で人が重要なのか、どんな人だといいのか、それは何故か、過去にも人が大切だと感じたことがあるのか、その過去の出来事と「人が重要」と思う理由はちゃんとリンクするのか

 

「仲間と協力して達成したのが嬉しかったです」
→協力している過程はどのようなものだったのか、達成したという事実が嬉しいのか喜んでる仲間の顔を見るのが嬉しいのか、仲間の中でどんなポジションにいたのか、それが他のポジションだったとしても嬉しかったのか、達成するまでの過程でこだわったことは何か

 

「怪我をして大きな挫折を味わいました」
→怪我をしてどんな気持ちになったのか、それまではどんな自分であると思っていた中、挫折を経てどのように自分が変わったのか、具体的にそれはどういうことか、何故怪我の挫折からそのような気づきを得たのか

 

といった具合。
1つの言葉であっても、その背景には色んな思いや経験が詰まっている。それを知ることで、話が深まり、よりお互いの絆が深まる。

そんな気がした。

ふっと話しやすくなる瞬間を作り出す人

昨日、素敵なお店に出逢った。

 

肥後橋駅から少し歩いたところにある、「hitofushi」という暮らしの道具を扱うお店。

 

ふらっと入店し、真剣に商品を見ていると、ひとこと。「昼から急に寒くなりましたね〜」。

 

急に話しかけられ対応しきれず、私は「あ、そうですねぇ。」と、他人行儀な答えしか出んかった。

 

私が逆の立場やったら、その空気に耐えきれへんくて、もうお客さんに何も喋らへんねんけど(笑)、その人は少し間を置いて話しかけてきた。

 

「贈り物ですか?」

「はい、友達が誕生日で」

「いつからの友達なんですか?」

「小学校からの友達で」

「えーーめっちゃ仲良いですね!」

 

こんな具合に、ポンポン会話が生まれる。

 

気付いたら、私はお姉さんに心を許していて、予定より2つも多くの物を購入していた(笑)

 

このお姉さんから学んだことは3つ。

 

①お客さんと仲良くなりたいな〜というあったかい愛情をもって接する

②答えやすい質問からキャッチボールの回数を重ねて距離を縮める

③最初は気まずいもんでしょ、と割り切って会話を恐れない

 

かなぁ。私も頑張ろう〜

 

「いる」ということの有難さ、面と向かって「有難う」を伝える大切さ

昨日、おじいちゃんが天国に持っていくためのお手紙を書いていた。

 

思い返すと、おじいちゃんは私の喜ぶ姿を見るために、たくさん顔を合わす時間をとってくれ、そして私が笑顔になる瞬間を喜んで見てくれていた。

 

そうやって、私に時間を割いてくれたこと、脳裏にしっかり笑顔が焼きつくほど笑顔でいてくれたことに、有難う、と思った。

 

でも、私はその時その時、心の底から有難うと感じ、そして「有難う」と伝えられていたかと聞かれると、正直自信をもって「うん」とは言えへん。

 

何故か?

それは「おじいちゃんが顔を合わす時間をとってくれてる」=「そこにいる」ってことを、当たり前やと勘違いしてしまっていたから。

 

でも、ちゃう。

おじいちゃんが、私に対する愛情を伝えるために、ちゃんと時間をとってくれたからこそ、顔を合わせることが出来る。おじいちゃんがその行動を起こしてなかったら、叶わへんかったこと。

 

これって、めっちゃ有難い。「いる」ってことが、もう有難い。

 

じゃあ「有難い」ってことを気付けたとしても、面と向かって「ありがとう」って言うのはちょっと小っ恥ずかしかったりする。

 

でも、その時を逃したら、次会うときはその人はご遺体になってるかもしれへん。

人なんて、いつ死ぬか分からん、老若男女問わず、誰もがそう。

 

その瞬間の小っ恥ずかしさ、か、

失ってからの後悔、か、

どっちをとるかね。私は断然前者かな。

 

面と向かって心込めて「有難う」を伝えな、意味がないんやな、って思いました。

 

せっかくおじいちゃんが教えてくれたんやから、明日からは、大切な人がいてくれることに感謝して、きちんと「有難う」が伝えられるように生きようっと。